言語フィルター106

A=B、B=Cだからといって、A=Cではない。こういうことを真顔で言うと、阿呆だ、間抜けだ、と、したり顔で指摘される。しかし、世の中は数式のようにはいかない。私が阿呆で、彼も阿呆だからと言って、私=彼というわけでもないだろう。だが、等符号で結ばれたという事実。あるいは、等符号で結ばれたということが書かれたという事実によって、A=B=Cという仮定は、正となってしまう。一旦、正となってしまえば、それは何人にも動かしがたい真実となる。
言葉も同じことだ。Aという事実の周りには無数の想念が渦巻いている。それは自分でも把握できないほどの小さな断片や破片を含んでいて、一口に言うことはどんな天才にもできないだろう。だが、Aである、と言ってしまえば別だ。それはその想念に付着する埃の一切をフィルターにかけて、大気圏を突破し、惑星となって昂然と闇夜に輝いてしまう。書くことも同じだ。あやふやで粘着質で不定形な想念を、固形化し、具体化し、彫刻化しなければならない。その作業は、非常な痛みを伴う。脱ぎ捨てた皮膜を愛おしく思うこともしばしばだ。それでも、私はそうしなければならない。不定形なものを不定形なままで凍結させ、破裂しそうなものを破裂させず、しぼませず、火の海を燃え盛るままで文字に置き換えなければならない。なぜなら、破壊と創造を伴うその神的作業でしか、私は勃起しないからだ。