ある果てしない跳躍

私には名前がある。当たり前だ。誰にでもついている。親(あるいはでしゃばりな祖父)によってつけられたこの名前は、私には変えることができない。いや、見た目上は変えることができる。役所に申請して認められれば、変えられるのだろう。詳しい手続きは知らないが。しかし、名前とはそういう問題ではない。家族にとっては、私の名前は未来永劫、たとえ改名しようが婿養子に入ろうが、同じままだ。それは焼印として、一旦押されたらしつこく残り続ける。影のように、夜が消してくれるわけでもない。

それが悪いという話ではない。問題の本質は、一旦与えられた名前にどれほど人間が規定されるか、ということだ。例えば、卒業から10年・15年も経った後の中学の同窓会でも、当時そう呼ばれていた屈辱的なあだ名(回虫、ミジンコ)などで呼ばれ続けなければならない。大人になった彼らは、いまだにその名前で呼ばれることを内心忌み嫌いながらも、苦笑しつつ「そういう時もあったな」と余裕を見せることになる。そして、ミジンコ的もしくは回虫的な行動様式をおどけた態度で示さなければならないのだ。

名前とはそういうものなのだ。レッテルと言い換えてもいい。ラベルでも、呼称でも何でもいい。とにかく、そういった周囲から多重に貼り付けられた殻から抜け出すためには。ある種の「跳躍」が必要になる。いじめられっ子の殺傷事件。お固い課長の痴漢現行犯逮捕。常軌を逸した・・・・つまり周囲の認識以上の、という意味での・・・・行動だけが、認識の枠をぐにゃりと歪め、それを再構成させる景気になる。ただし、それはよっぽどのことがない限り、元の認知様式をすべて覆すというわけにはいかない。いじめられっ子は、切れやすいいじめられっ子。お固い課長は、頭だけじゃなくて股間もお固い課長、ということにしかならない。

そうなると、全てを消したい人間はどうなるのか。それには、並外れた距離の跳躍、あのソトマイヨールも及ぶことのない華麗で巨大な跳躍が必要になる。その跳躍の一つは気が狂って精神病院に入れられること。二つ目は殺人事件を起こして、永久に獄につながれること。二つとも世界から飛び出るための跳躍だ。そして、最後は周囲から消失すること。知己の目の届かないどこか遠くで、新しく珍奇な踊りを披露して、それにふさわしい名前をもらうこと。そう、たとえば、私のように。