彼の最終日

父が死んだという知らせを聞いたとき、彼は23歳だった。


電話を受け取ったとき、彼は下宿で一人絵を描いていた。画家になろうとしていた。母親の泣き声で震える受話器を持ちながら、その報せがどういう意味のものかを、彼は瞬時に悟った。絵筆を放り投げ、郷里に駆けつけなければならないこと。家業の惣菜屋を継がなければいけないこと。画家になる夢は諦めなければいけないということ。こちらの知人に別れも告げずに、去っていくこと。顔もよくわからない親戚たちに連絡をして葬儀を執り行うこと・・・・。


彼は受話器を置くと、迷わずに上着を羽織り、あるだけの金をポケットに突っ込んで、部屋の外へと飛び出した。描きかけの自画像は、輪郭をようやく写し終えたばかりだった。しかし、不思議と彼に迷いはなかった。頭の中にモザイク状に張り巡らされていた彼の情念は、大掃除を終えた古屋の蜘蛛の巣のように、綺麗に取り払われていた。


絵を捨て、生家へ帰ることが心地よかったわけではない。むしろ、絵は彼のすべてだったと言ってもよかった。家業を継ぐなど、考えてみるだけでおぞましかった。同じ志を持つ仲間と離れることも苦しかった。


それでも、彼は、ほっとしていた。ドアを閉める間際、乱雑に散らかった部屋を彼は振り返る。ぽっかりと空いた空間が、目に入ってきた。それは履き潰したブーツのように愛着を感じさせたが、もう二度と戻ることはないだろうとも確信させた。わずかに微笑して、彼は青年の抜け殻に別れを告げた。迷いはなかった。とにかく、彼は、ほっとしていた。その安堵は理解しがたかったが、それでも納得している自分を彼は信じた。