切り崩された崖に咲く白百合

「私は、時間が、怖くなったのです。」


そう書き残して、彼はいなくなった。
彼は始終何かやっていないと落ち着かないたちだった。
気のきく男だと評判だったが、あまりにも気忙しすぎるので、うっとうしく感じることも度々あった。


彼は週に7日働いた。一週間が8日あったら8日、10日あったら10日働いただろう。
家に帰ってからも、妻や娘に邪険にされながら、細々とした雑事を夜遅くまで続けた。
そのほとんどはやってもやらなくてもいいことだった。
家の事を終えると、彼は倒れこむように寝る。
それは一瞬の出来事だった。
布団に入ったと思ったら、あっという間に鼾が聞こえてくる。
そして、朝になると突然むっくりと起きて、仕事に向かう。
1年間、365日、その習慣は、変わることなく10年以上続けられていた。


ある日、彼は一週間の休暇を取った。
彼から進んで申し出たのだとも、会社から無理矢理取らされたのだとも言われていたが、本当はどっちなのかよくわからなかった。
一週間、彼は自室に篭った。家のことに口を出す事もなく、ただじっとしていた。
騒がしくなくていい。妻や娘は特段何もしなかった。
最後の日に彼は首を吊って死んでいた。
だが、本当に彼の首を締めたのはロープではなく、時間の扉だった。
彼は吸い込まれ、抜け殻だけが残った。
分厚い門に首がちぎられる前に、わずかな隙間から彼が垣間見たものはわからない。
ただ、それが膨大な過去と曖昧な未来を凝縮した暗闇に浮かぶ小さな光だったとしても、おかしくはない。そして、その光がわずかに彼の顔に似ていたとしても。