そういうものだろう。俺は。

どうにも肩が痛い。回すたびに音がする。
あまりにも痛いので裸になって鏡で確認してみると、カリイー・ミノーグが噛み付いていた。
だが、俺はカイリー・ミノーグを知らない。
これが凶暴なカイリー・ミノーグなのか、それとも通常のカイリー・ミノーグなのか、発情期のカイリー・ミノーグなのか、わからない。

こういう時は専門家に話を聞くに限る。
俺はタウンページを手早く繰って、ダイヤルを回す。
「もしもし?」
「はい。」
「どうも噛み付かれているんだが。」
「どのようにですか?」
「すごく痛くだ。血も出てる。」
「あー、そりゃいけないですねえ。引き剥がせませんか。」
「駄目だ。がっちり歯が突き刺さってる。」
「ちょっと耳のあたりを叩いてみてください。」
「あたたたた!余計に強くなったぞ!」
「おかしいですねえ、たいていのマリア・カラスならやめるんですけどねえ。」
「今なんて言った?」
「え?いや、普通なら辞めるって・・・・。」
「何が、だ?あんた何の専門家なんだ?」
「いや、当店は日本最大級のマリア・カラス専門店ですけど・・・・。」

勢いよく電話を切る。間違えた。なんて間抜けなんだ、くそったれ。
垂れ落ちてくる血を拭わずに、俺は更にタウンページをめくる。
まったくマリア・カラスの専門店なんて狂ってる。
店の中には、青や黄色や赤のマリア・カラスが飛び跳ね回っているんだろう。気違い沙汰だ。
俺はカラスにもマリアにもマリアカラスにも興味はない。
ダイヤルだ!ダイヤルを回せ!俺の腕が引きちぎられる前に。

「もしもし?」
「はい。」
「噛み付かれてるんだ。」
「それは災難で。で、何をお望みで?」
「何をお望みだと?噛み付かれてるって言ってるだろうが!」
「妻の死体をひきずりながらパンを買った男だっていますからね。念のためです。」
「俺をそんな気違いと一緒にするな!血が出てるんだ、これを外してくれ!」
「で、何が噛み付いているんですか?」
カイリー・ミノーグだ!」
「ああ、そりゃあ、こっちの手に負えません。」
「なんでだ?あんた何の専門家なんだ?」
「リスク回避です。」
「リスク・・・・?これはリスクじゃないってのか?」
「いいえ、リスクです。ですが、私はリスクを回避する専門ですので、リスクが起きてしまっては、対処することは不可能です。」

私は受話器をたたきつけた。
専門家専門家専門家!なんて世の中には専門家が多いんだ!
俺はカイリー・ミノーグを引き剥がそうと力を入れたが、どうしても離れようとしない。
仕方無しに俺は電話をかける。
どこにかけていいのかわからないが、俺はでたらめにダイヤルを回す。
呼び出し音が苛立たしげに鳴る。

「はい、カイリー・ミノーグです。」

カイリー・ミノーグって、一体なんなんだ。

夢の釣り糸

黒い猫が出て行って 一人になった
スミスを聞きながら 釣りをしたいと思った 
折れたほうきの柄に 破れた包帯巻きつけて
どぶ川に垂れた太い釣り糸 釣り針もえさもない
赤いチュチュ 浮浪者の左手 かえるの陶器人形
何も釣れない 何もひっかからない
笑う狸の皮 飢えたラオスの難民 ローザ・ルクセンブルク
目の前を流れていく たおやかに微笑みながら
眠りに落ちて 夢の中でも釣り糸を垂れ
月が溶けた夜に 竿を上げたら
ひっかかっていたのは 遠い昔に脱ぎ捨てた自分だった
吊るされた自分に言う これは現実かい?夢なのかい?
獲物は無言で首をふる たおやかに笑いながら

手を噛み千切られた漁師は片膝をついて笑う

追う影、追われる影、逃げる影、欠けた影。大抵は自分の影の大きさがわからない。形がわからない。色がわからない。だが、それは幸せなことだ。影が伸縮し、捉えきれないうちは、生きることができる。
真っ黒に燃える太陽に焼かれ、アスファルトに影がこびりつき、もう影が伸びることも縮む事もできなくなって、あの娘は16になった日に死んだ。彼女は最後にこう叫んだ、影が!私そのものに!彼女はきっと絶望したに違いない。そのまま体を倒し、影の中に入って出てくることはなかった。

美しい水死体をひきずりながら歩く重い足取り

ゆっくりと、慎重に進まなければならない。ジャックナイフを研ぐように、腹式呼吸の練習のように。
踏み外してはいけない。私たちが歩いているのは、ピアノ線よりも細い柔らかい影。面積体積のない、どこまでも続く色のない断崖。
恐怖に駆られ、走り出すな。美しい妖婦の甘い香りに誘われるな。後ろを振り返るな、前だけを向いて歩け。光に目を奪われるな、光に目を背けるな。赤い舌を吐き出す餓鬼の涎に手を伸ばすな。
そして、万が一足を滑らせ、あるいは自発的に踏み外した場合、私たちは絶望の表情を浮かべなければならない。やってしまった、あるいは、しくじった。驚きと恐怖の入り混じった表情を浮かべ、決して舌を出したりしてはいけない。転落がどれだけ心地よく、解放感に満ちていたとしても、苦痛に悶える表情で、永遠に落下しつづけることが必要なのだよ、君たち。

ファッファッと叫ぶ気の狂った女生徒の胎内の中で

文章を書くことが創造だって?馬鹿な事を言うな、この癲癇持ちめ。書くことはそんなものじゃない。書くことは殺しだ。頭の中に、体内に、肺の中に渦巻いている得体の知れない情念を、このわずかな語彙に押し込めることで、それを殺してしまっているんだ。一旦書き付けたが最後だ。それは言葉として残る。私は自分が吐き出した文章を見て、いつもやり切れない思いになる。こんなはずじゃない、私の思っていたことはこんなことではない、これじゃただの化石じゃないか。だが、そんな私の思いを踏みにじるようにみるみる言葉は固形化していき、鋭い切先となって私の喉元を刺そうとする。
本当にそんなことが言いたかったのか?NO。NO。NO。